沈まぬ太陽

労働組合のない我が社は、休日出勤は代休で処理が原則で手当は払われない。ということで、今日は無理矢理、代休とした。平日休みの良いところは、映画館が空いていること。のんびりと何も考えず映画を観ることが最近のストレス解消になっている。

途中休憩が入る映画は初めてだが、その長さを感じさせない緊迫感のある展開は見事。原作の山崎豊子著『沈まぬ太陽』は、以前に文庫本で全5巻を読んでいるので、ストーリは事前把握済み。その分、映像によるストーリに集中することができた。

さて、この映画(小説もだが)をどう捉えるかだが、一つは、限りなくフィクションに近いノンフィクション、そしてフィクションとしてしまうかだ。

沈まぬ太陽〈1〉アフリカ篇(上) (新潮文庫)

沈まぬ太陽〈1〉アフリカ篇(上) (新潮文庫)

フィクションとして捉えた場合は、良くできているという評価。さすが山崎豊子。題材も含め、登場人物の作り込みや展開、感情移入を誘う仕掛けなど、素晴らしい。映画でもこれだけの長編をよくぞこれだけに集約したものだと思う。エンターテイメントとして充分楽しめた。

そして後者の限りなく「フィクションに近いノンフィクション」と捉えた場合、これは問題が多い。今話題の日本航空が題材であることは明らかだし、123便の事故もしかり。主人公恩地のモデルも実在する。

批判を浴びている事実の湾曲は多々みられる。例えば、123便の事故では530人の犠牲者が存在するが、恩地のモデルは被害者担当になったことはない。しかしながら遺族から見れば、あの悲惨な事故を営利目的の映画(小説)の題材とされたということになり容認ができないだろう。映画として、あるいは小説として面白かったではすまされない。

けれども日航の現状は、こういった過去の事実が起因していることは間違いない。いまだ労働組合が8つもあり、国費も投入がされようとしている現状では、こういった形でも問題提起する意義があるのかもしれない。観る側、読む側がどのような意識でこれらを受け取るのかで評価が分かれるところ。ただ盲目的に楽しむ、信じるだけではすまないという映画を作っってしまったという意味では問題なのかもしれない。