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重松清著『また次の春へ』で放射性物質のことを毒と表現したことについて

単身赴任 雑感 書籍

東日本大震災における家族のそれぞれを描いた重松清らしい優しい短編小説集です。必要以上に劇的に描いていないソフトなストーリ。過剰に悲惨に表現せず、感情の琴線にやわらかくゆるやかに触れます。この辺の機微な筆遣いが絶妙です。

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ここからが本題です。

 

この本には、『帰郷』という短編が収められています。福島第一原発の事故により放射性物質が降り注いだ地域、おそらく南相馬市小高地区当たりのことを書かれているのでしょう。お盆に一時帰宅が許された地域での夏祭りの話です。

たしかにそのとおりで、よく取材し、よく現実をとらえていると思います。ほんとうにそのとおりです。

しかしながら、残念なことは、重松清がこの小説の中で、放射能・放射性物質・放射線のことを「毒」と表現したことです。思慮深い重松清のことであるから、それなりに考えて書かれたのでしょうが、あまりにも無神経な表現と感じました。この一言ですべてを駄目にしてしまいました。そう感じるのは私だけでしょうか。

 

実際に放射性物質は、毒なんでしょうか。確かに身体に影響があるのだろうから避難指示が出され、未だ住むことも立ち入ることもできない制限区域が設定されているのでしょう。だからといって「毒」という表現が正しいのでしょうか。

また次の春へ

また次の春へ

その地域に住む人が『帰郷』を読んだ時、どんな感じを受けるのでしょうか。実際に何万人の人が生活を営んでいます。戻りたいと心から願っている人もたくさんいます。私もこの4月から住んでいます。私は、毒に穢された地域に住んでいるのでしょうか。そう考えなければいけないのでしょうか。1の毒と100の毒、100000の毒、どれも一度、毒と表現されれば同じことです。私の郷里はこの地域の10分の1線量ですが、でも10分の1の線量を計測があります。これも毒でしょうか。

疑問ばかりです。

なぜ、毒と表現したのでしょうか。それは小説として、安全で平和な地域にいる著者も含む読者が読んでみた時、このような表現の方が面白いからか、センセーショナルに感じるからなのでしょうか。私が過敏すぎるのでしょうか。この地域にいる方は、この小説を読んで平気なのでしょうか。

疑問ばかりです。

私はこの事故を、また放射線の影響を軽視し、また良とするつもりはありません。酷い事故だと思うし、現地に住んでみて原発事故がなければと心から思います。しかしながら、毒という表現が適当でしょうか。諄いですが疑問ばかりです。著者の真意を問いただしたい気持ちでいっぱいです。