高砂コンビニ奮闘記

著者は、森雅裕。今でも著者の江戸川乱歩賞受賞作品『モーツァルトは子守唄を歌わない』を読んだ時のことを思い出す。就職をする直前の頃だった。

昭和60年、乱歩賞は、東野圭吾との同時受賞。東野の受賞作『放課後』は後味の悪い小説で、その後もこの作品の読後感は、未だヲレにとってはトラウマとなっている。森雅裕は、受賞後、小説を書き続けたが、いつの間にか出版界から消え(本人曰く、干される)、ホームレスに近い生活をしていた模様。

この本は、生活に困窮した著者が、コンビニのアルバイトをして暮らした1年間の事を書いている。正直、こんなふうになっていたとはまったく知らなかった。

単なるコンビニのアルバイトであるが、著者の信念がふつふつと滲みでるような内容だ。真剣であるが故に理不尽さに憤慨する。そして、特に後半は、自分さえも恥じなければならない状況に陥る。

キャノンの派遣社員の話である『遭難フリーター』などを読んでもそうだが、どうしてこんな世の中になってしまったのか。

遭難フリーター

遭難フリーター

それぞれの個人が考えなおさなければならないのでは。誰が悪いという犯人探しではなく、己の心に問う形でだ。

高砂コンビニ奮闘記 -悪衣悪食を恥じず-

高砂コンビニ奮闘記 -悪衣悪食を恥じず-

才能と現実との乖離。この本にこんな一文がある。

そういえば、白桃ピーチパフェか何かを売り出した時、某小説家がTV CMをやっていた。自分よりあとから世に出た作家がCMをやって、俺は現場でユニフォームを着て、そのパフェを作っているのかと、自虐的な気分を味わった。
けれど、私はかの小説家が知らないこのパフェの裏側を知っているし、Mニップの実態も多少は知っているぞ。さあ、物書きとして、どちらが本分(本来尽くすべき務め)と本有(本来固有の性徳)を守っているというべきか。

本書は新刊を購入して読んでもらいたい。未だに困窮した生活を送っているだろう著者への応援の意味を込めて、この本が多少でも売れて印税が入ることを祈りたい。せめての願いだ。