管制塔 ただいま、占拠中、静岡空港

1978年3月26日の新東京国際空港の管制塔占拠、通称「三里塚3・26闘争」の被告らによる手記を編集したもの。

きっちり10年後の1988年3月26日発行。初版だ。

解説書でもなく、物語でもないので、その背景などの予備知識がないと理解しにくい。基本的に時系列に編集されているのだが、それぞれ書き手が違う上に当事者しかわからない内輪の話題も多い。まあそれ故に、反対小屋の雰囲気や占拠への経過などが、闘争側から見た・感じたままに書かれていて、生々しい。その場に居なければわからない緊張感が伝わってくる。一方、悪く言えば仲間同士の思い出づくり的な部分もあって、結構おちゃらけで部外者が読むと白けてしまうところも多々見受けられる。

30年も経って読んでみると、いったい何だったろうねと思う。今では新東京国際空港は、日本の代表的な空の玄関口となり必要不可欠、この空港が無いことが想像がつかない。当時のことはリアルに体験していないので是非については言及しないが、同じようなことを、6月開港予定の富士山静岡空港においても感じる。

そう、例の「あの木なんの木気になる木」だ。未だなんで反対地権者が木を切ることに反対しているのか理解に苦しむ。今となっては本当に静岡県(民)のことを考えれば、2500メートルの完全供用に協力すべきではないか。地権者はそれが権利だと正義を振りかざしているが、ここまで来るとどうしても自分の思うとおりにならないと面白くない的な我が儘なイメージしてしかたがない。県全体の利益を考えることが必要ではないか。県民である自分からすれば、現時点ではこれまでの経緯よりも使う必要がない1億1千万円の税金を使うことの方が重要だ。どこの部分の責任を問うのかは、税金の追加投入とは別に議論をしてもらいたいところ。たぶん、多数決であれば圧倒的に税金の投入に反対だ。間違いない。けれども誰もが声たかだかに言うことができない。陰ではこそこそ言うのにだ。腫れ物に触るようにおどおどしている。

この本を読んで違和感を感じるのは「闘争」「闘い」という言葉を連呼していること。その言葉のイメージに酔っている。静岡空港の反対派も同じ。ここまで来て反対を続けている姿を見ると、体制に対する反対のための反対、空港を材料に使っているだけではないかと感じてしまうのはヲレだけ?諄いが、今となったらこの空港を如何に利活用して費用対効果を高めることが必要。将来に向けて努力すべきだ。もう元に戻せないのだから。

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