論理学は正しい思考の法則

某サイトで、責任ある立場の人の意見の中に、明らかな誤りを見つける。単なる勘違いとかいうミスであればよいのであるが、いわゆる意図的・恣意的としか思えない内容だ。あえてここに曝さないが、責任ある立場の人の発言としてコレでよいものかと強く思う。具体的には、次のようなこと。

まず、一つは、論理学でいう対等推理。

AをしたからといってBは許されない。だから、その結果、Cとすることは当然だ。

Cの前提はBが許されるかどうかの証明されなければならない。Bが証明されなければ、「Cとすることは当然だ」という主張は成り立たない。「矛盾対等」という。

某サイト内の発言では、ここでいうBが明らかに誤っている。勘違いか意図的か判らない。判らないが、その主張は間違いだ。

二つめは、論点相違の誤謬と感情に訴える誤謬。資料的誤謬だ。

「Aさんの○○は、Bだって、でも私の○○は、Bよりもとっても少ない。いいねえ、Aさんは。」という声を聞いた。だから、Aさんは駄目だ。Bは改めなければならない。

よくある論法であるが、結論に至る時点で論点がずらされている。いわゆる「的はずれ」の議論で、論点相違の誤謬と言われる。比較対象が正しいのかが証明されておらず、別の人であればBより多いかも知れない。そうするとAさんは駄目という結論が出ず、Bを改める方向も逆に向かってしまう。おまけに、○○から聞いたという偶然性を根拠としていている情けなさ。呆れてしまう。

また、あえて他人の言質を出すことによって客観性を持たせようとする恣意的な引用は犯罪に近い。問題である。「公衆に訴える論証」といって、群集心理を利用して論点をごまかすもの。扇動政治家の演説に多く見られる論証だ。

いずれにしろ、議論を闘わせるの中には、多かれ少なかれ、このようなことは起こることは周知の事実であるが、それが責任ある立場の人が社会的責任を負う某サイト上で発言することについては、如何なものか。